人の弱みに漬け込む連中の末路

ソウル市長が自殺したとのことである。どのような事情なのかわからないが、以前の女性秘書からの警察へのセクハラ訴えがその原因ではないかとされている。自殺はその事実を認めたとのことだろう。

死に人に対してあれこれと批判めいたことをいうことは、世間的にはよくないこととされている。まさに死んだもの勝ち的な意見である。現に、セクハラで訴えてたその元秘書が、非難の的となっているとのことだ。とんでもない話である。

例えばどうだろうか。ヒットラーだって自殺をしている。自殺をしたからといって彼が行った数々の悪行が正当されるわけでもない。単に無責任な人間の末路にしかすぎない。

私のような日本国人が韓国の人に対して批判することは、それ自体が大きな問題を孕むことになる。特に自殺したソウル市長が太平洋戦争での慰安婦問題で活動していたことを思えば、私の議論に裏があるのではないかと思う人も多いだろう。勝手にそのように思う人がいれば、それはそれで良いだろう。

私のこのソウル市長の自殺で思うことは、人の弱みにつけ込んだ人間というものである。日本にもそのような人間は多い。具体的に名前をあげることはないが、誰でも知っている人間である。まあ日本の場合では、能能と生き延びているものが多いのではあるが。出来もしないことを約束して、結局はその人あるは人たちの悲しみをいつまでも乗り越えることができないようにしている連中だ。

運動は当事者だけがやるべきなのである。それが小さい声で現実的な成果を生まないにしても。人の弱みにつけ込んでくる人間などを、一切信用してはならない。家の破産で私が身を以て経験したことであり、そして必ず本当の意味で自分を助けてくれる人が登場すること。

人の弱みにつけ込んだセクハラ市長が自殺しようとなんだろうと、私には一切の同情心などはない。