本当のマルチタスク:料理と生活

マルチタスクほど評判の悪いものはない。以前は高い評価だったのだが、その実際がわかるにつれて評判を落としていった。効率的な作業のように思えるが、実際は効果のない作業形態だ。それは単に気が散るだけで仕事に集中できない人間がすることなどなど、である。

しかし、これらの話はすべて出鱈目である。理由は簡単だ。批判の対象となっているマルチタスクとは本来の意味でのマルチタスクとは似て非なるものなのである。批判されているマルチタスクなるものは、単に時間系列で色々なことに手をつけることである。集中できない人間がすること、まさにその通りのことなのである。

では真のマルチタスクとは何か。同じ時間に複数のことを同時にやることだ。左の目で料理を見ながら、右の目で本を読む。一般的には不可能なことを可能にする方法であり、無自覚に達成できるものではない。自分の工夫が必要なのである。気ままにできるものではない。

人間の感覚器官で考えてみる。マルチタスクが可能なのは、耳とその他の器官。例えば音楽を聴きながら文章を書くなどの作業を同時にこなす。まさにこれがマルチタスクなのであるが、工夫によっては色々と応用できるものだ。どのように応用するか。

今まで雑然とやってきたことに、意味を見いだること。これがマルチタスクである。その一つを今回紹介してみたいと思う。料理と生活である。生活の質向上である。コンマリ手法の応用だ。

料理に関する話題はネットでも盛況だが、その話の基本は良いものとは言えない。大概はメーカーの意向を反映したものにしか過ぎないから。つまりは料理することは面倒だから、我が社の製品を使うと如何に短時間で面倒なく料理が仕上がるのか、そのような話である。こんな話を毎度毎度聞かされていては、料理といえば面倒なものだとの考えが人々に植え付けられてしまう。企業優先社会のとんでもない帰結である。

本当のところはどうだろうか。例えば煮物料理を考えてみる。日頃自分がよくやる料理なのだが、これが実に簡単で手間暇がいらない。こんな具合での手順となる。

・材料の用意:
面倒だと思うのは、料理を決めて材料を考えるから。手持ちの材料から料理を考えれば、心理的な負担もない。日頃根菜的なものを意識的に用意しておけば、煮物などは考えることもなくできる。

・材料を切り揃える
コンピュータを仕事に使いながら未だブラインドタッチができない人間は多い。私の場合は、そのような人間と一緒に仕事をする気もおこらない。ブラインドタッチなどは人が歩くことと同じくらいにコンピュータ社会では必然の技能なのである。技能などと言われるほどもない、当たり前のことなのである。

料理での基本動作は、包丁使いである。この包丁使いが未熟だから料理が負担に感じるのだ。自在に包丁を使えるようになる。これほどの楽しみはない。少しは練習しろということだ。

・料理時間
煮物の場合は材料を切り揃えて、味付けしてこれでおしまい。煮物のつゆの作り方を決めておけば、なんら負担に感じることはない。私の場合は、3倍濃縮のつゆの場合は、総量で500mlになるようにすること。水400、つゆ50であとはみりんと酒で調節。材料により味の濃さ加減も違ってくるので、これは経験である。

材料に味付けのつゆを入れて煮た出せる。煮立ってから落とし蓋を落として10分ぐらいで大抵材料は煮えるものだ。この後の作業は味の調節。10〜15分で煮詰めながら味を確かめていく。これで完成である。

・合計の料理時間:
準備から完成までどのくらいの時間が必要か。最大でも30分。ただしこの間に特別なことをする必要もないので、体感時間はほとんど感じない程度のものである。

つまり実際に自分で料理してみればわかるが、面倒なことでもないのである。さらに重要なのは、自分で料理することには多くの利点があること。生活の質を向上させるものであることだ。具体的には以下がポイントとなる。

  1. 充足感:
    料理はあまりにも普通過ぎて、その価値がわからない人が多いようだ。食べるための料理、このように考えている人が多いようだ。確かに食べるための料理なのだが。しかし作るという観点で見てみると、料理も全く違ったように見えるものである。
    最近は、Creative力なるものが多いに評価されている。大概は絵とか音楽とかの芸術系のものを指しているのだが、実際のところはそれだけではない。作るものすべてに関係することであり、当然作ることとしての料理もCreativeに関係するものである。
    Creative力の利点とは何か。他人のことはさておいて、まず大切なことは、自分がこれほど満足する行動は他にはないことだ。色々なことをやってきた私が断言するのだらか、これは確かなことである。学んだり習得したりするだけでは面白くない。それらの学習が活用しながら自分で何かを作ることが、本当に楽しいのである。だから現在の世の中に流布している簡単料理などは邪道なのである。作る楽しみの料理。これが本来的なものなのだ。
  2. 時間を経験する:
    若干の飲食店を除けば個人商店が消滅したのがこの国現状である。スーパーなどのチェーン店ばかりの街並みである。その中で例外として存在しているのが、八百屋である。足の短い野菜や果物の販売で、スーパーなどはそれほどの力を発揮することはない。その八百屋が目利きの店主であり、市場に特別のつながりを持っていれば十分に対抗できる。それが理由であろう。
    料理は基本自分でやるようになってから気がついたがのこの八百屋の存在である。しかも結構繁盛していることに驚いた。何故か。ただ野菜を買うだけの利点ではないから。時間あるいは季節を感じること。これが八百屋の魅了である。
    今自分で昨年2025年のことを振り返ってみると、思い起こす場面が多いのが意外にもその八百屋での買い物。これまではなんの印象もなく時は過ぎ去っていたのだが。八百屋を使い出してからの昨年からは違う。料理に結びついた生活が記憶に強く残っているのだ。
    例えば筍だ。昨年の2025年は、筍飯に挑戦した。合計10回以上は作ったか。鍋で飯を炊くこともこれで覚えた。春の記憶が自分にはどのくらいあるのだろうか。せいぜいのところ桜見程度だろうが。昨年、今年は違った。記憶に強く残った年。これもあの八百屋のおかげだ。
  3. 自分で生きるということ
    ヤフコメなどを読んでみるとわかると思うが、人が如何に他人の意見を鵜呑みにしているか。他の人が言っていることとそれほど違わないことをまた投稿している、どのような神経なのだろうか。まあヤフコメの質の低さはもうどうしようもない水準なのであるが。
    食べることは自分の生活あるいは生命にとって不可欠なことである。もっとも重要な生活である。この大切料理について、企業などに奪われてしまってはダメだ。自分で料理できない人間が自分の意見を持つなどは考えられないことだ。全くの不可能だ。
    自立した人間としていきたい。誰もが思っているのではないか。ただこれまでの世の中の流れでその思いも失われてしまったのではないか。
    不満を言ってもどうしようもない。できることから始める。それが料理だ。最初はインスタントラーメンを作るのでも良いのではないか。店売りの弁当を夕食として食べるよりは、ずっとマシだ。
    やってみればわかるだろう。料理は面倒なことでもなく逆に楽しいこと。例えば会社での嫌なことも頭から去って、また明日に楽しく仕事ができる準備ともなるものだ。


普通にこれまでやってきたこと、あるいは思ってきたこと。改めて自分自身で検討することで新しい可能性がひらけてくるものだ。自分にとって実感できる可能性である。料理を手始めにして、これからの生活を考えみる。2026年が終わりの頃、自分がどうなっているのか。楽しみではないか。