春の夢

ここ1週間ほど腰痛が悪化して歩くこともできなかった。部屋に篭りっきりの生活となった。少しは良くなって通常通りの生活に戻れると思っていたのだが、まだまだそれも難しいようだ。

部屋に篭りっきりの生活。こうなると思い浮かぶのが正岡子規のことである。明治時代の俳人。現代俳句の先駆け。結核病の一種の脊椎カリエスであくることもできなくなった人である。

私がこの人についていつも不思議に思っていることがある。歩くこともできない状況を反映した句もある。有名な雪を確かめる句など。しかしそれだけではない。忍ばすの池の鴨について。あるいは奈良の法隆寺について。歩けた時の記憶なのだろうか。調べてみたわけでもないのだが、どうもそのようには私には思えない。

テレパシーの俳人、それが正岡子規である、と私は思うわけだ。

とんでもない話だと受け取る人も多いだろうが、どうだろうか。

柿食えば鐘がなるなり法隆寺

この句をどのように解釈するのか。彼が奈良あたりを散策して例えば立ち寄った農家の縁側で振舞われた柿を食べていたら、法隆寺の鐘が聞こえてきた。そんなところだろうが、それではこの句の不思議な魅力が伝われない。

住んでいた根岸あたりの家。上野公園にも近いところ。その家で妹が用意した午後の間食。柿だ。その柿を食べている時に確かに鐘の音が聞こえてきた。上野寛永寺の鐘ではない。まさに法隆寺の鐘の音だ。そのことをそのまま句にしたのが法隆寺の俳句なのである。と私は思うわけだ。幻聴ではない。まさに正岡子規のテレバシー能力で確かに奈良法隆寺の鐘の音を聞いたのである。だからこの句には不思議な深さがあると言える。

現実かどうかは知らない。作ることの不思議さ。これであると私は思うのである。