AIが学校授業に与える影響について

AI画像について文句を書いたばかりなのだが、便利さに負けて如何にも的なAI画像を作成し使うことにした。

以前の記事でAI小説について思いを書いた。小説家でもない自分にとっては正直なところ、AI小説の問題はそれほど切実なものではない。サプリメントなどはほとんどが毒なのに大方の人は積極的に使っている。それが問題だと分からなければ、小説もサプリメントと同じか。第一本当のことなどこの世の中に存在するのか。それさえも不確かであり、架空の話である小説が架空のロボットに書かれたとしても、知らなければこれも大方の人が楽しむことになるのではないか。

私自身としてより切実に感じていることは、AIがどんどんと教育の場に浸透してきていることだ。判断に迷おうところ。

私が教育の現場で教えているソフトの一つがMAYAである。業界標準の3DソフトであるMAYAである。色々なソフトを習得してきた自分の経験からすれば、習得するのにもっとも難しいソフトの一つである。MAYAを勉強したのだが結局は断念した。このように話す知り合いは多いのだが、完全マスターしたなどという人には、あったこともない。知識だけでなく感覚的に訓練しなければ到底マスターすることができないソフトなのである。

ただ難しい難しいと自慢話していれば良いわけではない、これが学校教育での難しさである。難しいも何もマスターしてもらえなければ困る、それが専門学校なのである。社会にでて自分の稼ぎになる基礎となるまで学生に習得してもらえなければ専門学校の存在意義はない。生徒の優劣判断だけで済むような既存の学校教育とは全く違うのが専門学校なのである。改めていうまでもないことだが。

で具体的な授業の話に入るとしよう。

教えたことがある人間ならば誰でもが知っていることがある。ラーニングカーブである。習得の度合いを示すグラフである。一次関数のように一定の角度で右肩あがりとなる学生はほとんどいない、最初の2、3ヶ月はほとんどの変化はなく(習得する度合いもなく)、この時期を投げ出すこともなく耐えてきた学生が急に力を発揮しだすのが3DソフトであるMAYAなのである。だから多くの人間がMAYAを習得できないのだ。あと2、3週間の我慢。それが分からない。当然のことなのであるが。

だからこの時期が大切なことであり、普通の教え方だとこの壁を乗り越えることができない。これまでの私の授業でもだ。個別指導で学生一人一人に丁寧に教えているのだが。この学生は何が理解できていないか即座に判断できる私だからできることなのだが。

歴史的に常に問題になることがある。時代が個人を作るのかあるいは個人が歴史を作るのかだ。たとえばヒットラーの存在。大戦後の閉塞したドイツの状態がヒットラーという狂人を生み出したのか。あるいはヒットラーという狂人がとてつもない悲劇を作り出したのか。ただ言えることは時代と個人の運命的な出会い。今の時代にヒットラーが登場したとしても、それほどの悲劇を生み出すこともないだろう。

でAIだ。歴史的な話によくあることとも言える。なるほど斬新な発想ではあったが、それほど人々に魅力的には感じられないテクノロジー、それがAIであった。人相の自動認識など。裏方的な機能であったのだが、その同じAIが人間と同様に何かを作れるようになった。最初は画像作成そしてついには文章作成までできるようになった。

どのような時代変化が背景にあったのだろうか。それは分からないが、教室の現場ではその変化を如実に感じるようになった。たった1、2年の話なのであるが。どのような変化。

sitebanner2-1
sitebanner2-2
sitebanner2-3